1.四街道駅北口

 四街道駅

武鉄道、市川~佐倉間は明治27年(1894年)7月20日開通。開通からわずか12日目の8月1日に日清戦争が勃発。

因みに、日本最初の鉄道は明治5年(1872年)年10月14日「鉄道の日」)新橋、横浜間に開通した。

同年12月9日「四ツ街道駅」開設。「ツ」を取除いたのは明治40年(1907年)11月1日。

佐倉、四街道に陸軍野戦砲兵射撃学校などがあり、陸軍(現在のJR四街道駅)の大演習が春秋行われ、明治天皇の行幸

(明治8年、13年、33年、45年)、皇太子の行啓(大正天皇の時、明治44年行幸)、昭和天皇の行幸が大正7年、

皇族方や宮様方々もお出でになられた。

そのため駅舎に特別改札口や待合室のある立派な駅であった。平成天皇が皇太子の時、

昭和48年に下志津病院と養護学校を行啓。

昭和43年(1968年)年3月28日、千葉~成田が複線電化。

明治40年7月2日の時刻表で一日の上り・下りで合計21本運行(現在281本)された。

1日の乗降者数約42,000人。

昭和46年に四街道駅前の開発が認可され、昭和61年に駅周辺の住民に大切にされていた

御神木のイチョウが現在地に移植された。

2014年12月9日、四街道駅開設120周年を迎え(東京駅は100周年記念切手発行)

市民活動による記念行事が開催された。

 

正岡子規の句碑

北口ローターリーに「棒杭や四ツ街道の冬木立」の句碑がある。

この句は、明治27年12月に当時新聞記者であった俳人で歌人の正岡子規が、東京の本所から佐倉までの発句枕の旅を試み、

その際往時の駅周辺の佇まいを 読んだ句で、同月30日の日本新聞にその紀行文「総武鉄道」として発表した。

この句の解釈には、当時、四街道駅付近は人家が2軒のみで湿地帯にあったため、鉄道線路に沿って両側に境界杭を

多数埋め込んだという説、3年後に陸軍野戦砲兵射撃学校の建設が決定していたので、駅に到着していた資材を運搬する

牛馬を止め繋ぐための杭が林立していた様を詠んだという説、

実際の木立を詠んだという説など様々です。           

2正岡子規

◇正岡子規

慶応3年(1867年)、伊予国(松山市)に生まれる。父は松山藩の下級武士。

政治家を志し、松山中学を中退して、明治16年(1883年年)、17歳の時

に上京、一ツ橋大学予備門に入学し、夏目漱石を知る。

この頃、和歌や俳句をつくり始め、人情本や落語なども好んだが、当時、流行

りだしたベースボールにも熱中した。一時、哲学者になろうとしたが、一方、

古俳諧の研究を進め、友人と句作に励んだ。

明治22年(1889年)に喀血(かっけつ)、「子規」と号し、翌年、帝国大

学文科大学(現東京大学)国文科に入学し、志望が三転した。当時の新進作家

幸田露伴の影響を受け、小説「月の都」を書いたが成功せず、結局俳人として

生きる決意を固めた。発表の場は主として新聞「日本」と雑誌「ホトトギス」

で、洋画家中村不折らとの交流により、俳句に自然を描写する写生の重要性を

悟り、また蕪村の絵画的で自在な句境を学び、従来の月並や理屈を排して若い

作者の中心となり俳句の革新を進めた。

主な俳論に「俳諧大要」、「俳人蕪村」などがある。明治30年(1898年)

には和歌の革新に乗り出し、「歌よみに与ふる書」を発表して因襲にとらわれる

旧派の歌人を攻撃し、当時としては、破天荒の斬新な手法による短歌であった。

 

明治35年(1902年)、35歳の若さで逝去。

 

3光寿山見真寺

 浄土真宗西本願寺派の寺。

開基、釋勝恵は昭和19年(1944年)

年元旦当地に生まれる。

父は筑後、母は筑前出身、昭和49年東組

専念寺(従兄)衆徒と成る。

昭和51年9月本山より帰郷し、翌年4月

本願寺第24代即如門主法燈継承を機に

道場を開き、常例法座を24日と定める。

高橋隆真先生の助言を得、昭和54年9月

寺号公称成る。

昭和57年仮本堂建立、有縁のお方の還浄を機に、その院号を以て、「光寿山」

と号す。

 

四街道市の寺は、真言宗豊山(ぶざん)派が多く、善光寺・福星寺・蓮花寺・

宥妙寺・観音院・吉祥寺・観音寺・円福寺・宝蔵院・吉祥院の10寺院を数え

る。他に遍照寺(高野山真言宗)、西光院(真言宗)、見真寺(浄土真宗本願寺

派)清久寺(臨済宗妙心寺派)、大隆寺(曹洞宗)、全宅寺(曹洞宗)、松源寺(顕

本法華宗)、大願寺(浄土真宗)などがある。浄土真宗は開祖が親鸞で、信徒数

 

は我国最多と言われる。

 

4下志津衛戍(えいじゅ)病院

 明治30年4月に下志津衛戍病院として発足、

その後、下志津陸軍病院となり、昭和20年

12月厚生省へ移管、昭和22年4月結核療

養所を経て、国立療養所下志津病院となった

後、平成16年4月1日「国立行政法人国立

病院機構下志津病院」となりました。  

敷地面積は58,301㎡と広大。

終戦後、当病院は四街道小学校の分校として

養護学級を受け入れ、その後、独立した四街道養護学校(現千葉県立四街道特

別支援学校)となり、全国から生徒を受け入れている。 

 

◇森 鴎外(もり おうがい)                             

我国翻訳文学の最高傑作の一つと言われる「即興詩人」を翻訳した文豪 森鴎外

が明治35年7月に四街道を来訪し、下志津衛戍病院に1週間滞在したといわ

れている。その後、鴎外は軍医部長として、軍医総督となり、明治40年まで

の6年間に計5回程、四街道を来訪した。「即興詩人」は、アンデルセン(デン

マーク人)の長編小説で、鴎外が明治25年から10年がかりで翻訳した。

 

東光(こん とうこう)

新感覚派作家の今 東光は、晩年、S字結腸癌を患い国立がんセンターで2

の手術(19731974)を受け、19776月に体調を著しく崩し再々度の入院

そして、急性肺炎を併発し、千葉県四街道市の国立療養所下志津病院で919

 

日遷化(せんげ=高僧の死)した。

 

5赤い郵便ポスト

 日本の郵便法によると正式名称は「郵便差出箱」という。

2005年10月現在、日本全国に  99,456個設置されている。

このタイプのポストは、市内で3つだけ残存。ポストの色は世界共通ではない。

イギリスなどでは赤色、アメリカは青色、ドイツ・フランス

等ヨーロッパ大陸では黄色が主流、中国は深緑色である。

当初、日本は「黒色」であったが、

イギリスより郵便制度を導入したため、明治34年(1901年)以降、「赤色」

 

にした。       

 

6みのり町開拓記念碑

この碑にあるように開発工事は昭和41年3月に着工。

開発の総坪数17,000坪。昭和42年(1967年)12月に地区名を「みのり町」と命名した。

市内で最初に土地開発された地区である。

その後、さちが丘、旭ヶ丘、つくし座、千代田、みそらさつきが丘、美しが丘、池花、めいわ、

鷹の台、もねの里などの開発が続いた。

大日地区に「桜ヶ丘」「緑ヶ丘」という町名があるが最初は「作良ヶ岡」、「実取ヶ岡」と「実りが多い」ことの願いを込めて

命名されたと言われている。

ここは昔は、荒れ地出であったので、豊作の願いと以前の土地よりも立派になり

「みのり」もあろうということで「みのり町」としたと長老の海保 信氏の説と、大地主の海保 実氏の「実」から

「みのり町」と命名したなど幾つかの言い伝えがある。

 

 

7馬頭観音・大ケヤキ・さかな道(街道)

  江戸時代、馬は農耕や運搬には欠かせない存在でしたので、農家では重要な働き手として家族同様に一頭は飼われていました。

この馬頭観音は、年貢米や物資の運搬には欠かせない馬の無病息災や感謝と供養を祈願して天保3年(1832年)

壬(みずのえ)二月吉日に建てられました。

明治・大正・昭和と四街道には軍施設が多くあり、佐倉牧もあったので、馬が払い下げられ、軍関係で使用していた

関係から馬頭観音が多いと言われている。

ケヤキは空に向かって手を伸ばすような樹形が端正で、春の新緑、秋の紅葉が美しい。

樹高は、稀に40mを超え、日本産落葉樹としては最大になる。

寿命の長い木なので天然記念物に指定されているものも多い。

木目が美しいうえに狂いがほとんど無いので社寺建築、臼などに賞用される。このケヤキは推定樹齢約180年。

写真(馬頭観音の囲い)の左側石仏は、昭和55年頃右側が盗難にあったため、悲しんだ人達により模した石造物でしたが、

数年後に発見され、戻ってきた馬頭観音を右側に設置しました。

前を走る「さかな道」は、江戸時代は年貢米や物資を寒川まで運ぶ重要な運搬路であった。

帰途は、千葉で買った海産物を運んだと言われています。

 

8庚申塔

 庚申とは干支(えと)、即ち、庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、庚申の晩に人間の体の中にいる

三尸(さんし)という虫が、寝ている間に体から脱け出し、上天して人間の犯した罪過を天帝に報告する。

三尸は三匹いて、頭、腹、足にそれぞれ住みつき、各々役割を分担して報告するという。天帝は悪業をした人

に罰として寿命を縮める。そのため、庚申日は徹夜をして寝ない様にすることが平安時代から鎌倉時代まで

宮廷貴族・将軍・武家の間で行われた。(「源氏物語」にも登場する。)

室町時代頃から仏教と深く結び付き、庚申縁起を宗教者が広めた。

これを庚申待ちと云い、一般庶民まで浸透した。庚申日は、六十日毎に年五、六回あり、庚申待ちの証として、

江戸寛永期(1624年~1643年)頃より庚申塔を建てるようになった。

始めは、阿弥陀・地蔵・大日と主尊も多彩であったが、その後、青面金剛を主尊とした像塔となり、

寛政期(1789年~1800年)頃より文字塔が多くなる。現在、市内に28基確認されている。

 

9吉橋家の長屋門とムクロジ(無患子)の巨木

 長屋門は近世諸大名の武家屋敷として発生した形式で、江戸時代に多く建てられた。

諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、

一棟とした物が長屋門の始まりと言われている。

その後、長屋門は有力武士の武家住宅の表門の形式として、広く利用されるようになりました。

武家屋敷の長屋門では、門の両側部分に門の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用された。

また、郷村武士の家格をもつ家や苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋でも長屋門は作られた。

更に、明治以降は他の富農の家屋敷にも作られるようになった。

このような長屋門では、門の両側部分は使用人の住居・納屋・作業所などに利用された。

現在、四街道市内に18の長屋門が確認されている。

長屋門を所有できる家は来客が多いので、食器洗いや風呂で使用する洗剤が必要であったため、

その代用品としてムクロジの木などが植えられました。

10くれまぶり

 家の角や辻に割り箸位の木に四手(垂)状の白い紙が付いたものが差し込んである。これを言う。

千葉市の稲毛地区などでは「晦日みそか)祓い(はらい)」と呼んでいる。

「御幣(ごへい)」と言う地域もある。暮れ・大晦日(12月31日)に1年間の悪しきこと・怨霊(おんりょう)

罪などを祓うために行われる風習。

広辞苑によると「まぶり(守・護)」「まもり」に同じとある。「まもり」(守)、守札「神仏の霊がこもり、人を加護すると

 

いう札」と書かれている。

11鹿渡香取神社

 関東地方を中心として全国にある。市内に6社。

香取神宮(千葉県香取市)の分社として創建されたもの。

祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)である。

境内には次の石物がある。

 

◇天照皇大神

御神勅を奉じて国家建設の基を開かれ国土開拓の大業を    鹿渡香取神社

果たされた建国の大功神である。故に昔から国民の崇拝非常に篤く、国家鎮護、

国運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として篤く仰がれている。

 

◇道祖神

疫病や悪霊の進入を防ぐ役目、旅人の安全を守る、道の神や村を守る神といろ

いろな役目を持つ。村境や峠、辻などにある。古事記・日本書紀・和名類聚抄

(わみょうるいじゅしょう)・今昔物語などにも記載されている。市内に18基

確認されている。

 

◇疱瘡神

疱瘡(天然痘)は痘瘡ウィルスに起因する伝染病であり約一万年前から知られ

ており、感染力は強く、昔は人類の過半数が罹患(りかん)していたといわれ、

死亡率も高かった。治療法もなく、唯ひたすらに神仏に祈るだけであった。

嘉永3年(1850年)7月に佐倉藩領(鹿渡村)で子供達に種痘を行ったと

いう御用日記が小川家古文書に書かれている。疱瘡神は、市内に9基確認され

ている。

 

◇社日塔(宮)

社日(しゃにち)とは、陰暦の春二月、秋八月の彼岸中日に最も近い戊(つち

のえ)の日をいい、五穀豊穣を祈願する。造塔の年記は二月、八月と刻されて

いるものが多い。土地によっては「社日さま」あるいは「五社(ごしゃ)さま」

と呼ばれている。農村では、この日に土地の産土様(うぶすなさま)を祀り、

穀物を生成してくれる土地の神として、五穀の豊穣(ほうじょう)を祈る。

この行事を欠かすと大地の神が怒り、その年は作物がよく取れなくなると伝え

られていた。この日は心身を清浄にし、農作業は行わなかった。千葉県下の旧

佐倉藩領を中心として約80基確認されているが、村の数から考えるともっ

 

と多くの塔が存在すると考えられる。

 

12鹿渡村は旗本間宮家の所領

間宮家の宗家、間宮直元(1590年~鹿渡村を知行地として281石所領。

陣屋も置く。)間宮家は、元禄年間(1688年~)以降、佐倉藩領となるまで

鹿渡村を所領とした殿様であった。

また、鹿渡本村香取神社からは、「間宮熊之助(幕府代官、間宮新左衛門正次)

と住民の屋号が記された神仏混合時代の大日如来御神殿再造の記念棟札」が発

 

見されている。

 

13小川家長屋門

 江戸時代に鹿渡村の名主を務めた名家。佐倉藩主、代官等も来訪している由。

地区に残っている年貢皆済(かいさい)目録によれば、慶応2年(1866年)

の鹿渡村における米の生産高は300石、うち年貢は、米で120石(4割)、

別に金納で、銭6貫425文2分とある。

年貢米は、当時あった佐倉藩米蔵(現千葉市寒川)に約292俵運んだ。運ぶ

のは村の責任で2俵を馬に載せると146頭の馬が必要であったであろう。

村は38戸の農家があり、馬が30頭しかいなかったので、他の村々からも借

りて運んだ。小川家の庭の臥竜梅は樹齢約500年。

母屋は築200年余。長屋門は築150年余。当家には、貴重な古文書が多数

 

保存されている。

14弘化4年(1847)の馬頭観音

江戸時代に千葉の寒川御蔵(佐倉藩の倉庫)へ年貢米を運ぶ道から約1㎞千葉寒川よりの字木戸場に有ったが、

道路拡張のため、ここにに移された石造物である。

四面に「南 ふなはし こてはし道」、「西 をうわた かやた道」「北 やまなし」、

「東 おなき わらび さかど東金道」と彫られており、道標を兼ねていた。

この馬頭観音の特徴は憤怒相でなく慈悲相であることです。

馬頭観音は市内に64基確認されている。

15連理の木

2本の違う樹木の枝が癒着結合したもの。一つの枝が他の枝と連なって理(木

目)が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として信仰の

対象となった。語源は唐の詩人、白楽天(白居易)の「長恨歌(ちょうごんか)」。

結婚式で「比翼連理の如く、末永くお幸せに…」と祝辞に使われる。この連理

木はケヤキ。昔は連理を発見した者は叙位・叙勲を受けた。比翼の鳥とは、雌

雄各一目一翼で常に一体となって飛ぶという伝説上の鳥。残念ながら、老木の

 

ため危険樹ということで2016年3月11日に伐採された。

16鹿渡(鹿ヶ鼻)城跡

 地区の台地上の突端部は、字名を戸崎(とさき)といい、中世の砦跡が残っています。

面積は2,585㎡(約783坪)、周囲は土塁と空堀で囲まれている。

臼井氏系の鹿渡太郎知常が城主だったと考えられる。

砦内からは、中世の内耳(ないじ)鍋の破片や中国の洪武通宝という630年ほど前の穴あき銭が発見されている。

この城が実際に使用されたのは、鎌倉時代から室町時代にかけてと推定される。

17秩父三十四番供養塔

 男性の奥州参りに対して、女性の秩父参りは「女一生の給金」とも言われ、信仰と観光の側面もあった。

一回の参加者は初期の頃は十人前後であり、男性の先達(せんだつ)が付く事から察して巡拝出来る人は

恵まれていたと推察できる。

ここの塔は日光山、善光寺銘も付記されている。

市内では吉岡の福星寺(ふくしょうじ)にある明和4年(1776)年が最古の塔である。

男衆が40日前後も出羽三山の旅を楽しむのに女衆が半分程度の日数では納得出来ないと考えたのかは分からないが、

数年後に「房州り」と言って、笠森観音小湊、鴨川、安房神社、那古観音巡礼の旅をした。これを「観音講」と呼ぶ。

秩父参りは、平成の現代も継続されている。現在、四街道市内に187基、秩父三十四番供養塔が確認されている。

 

石塔群のな句に百観音供養塔もある。

18不動堂とイチョウの巨木

 「不動」とは、「菩提心が堅固で、智慧(ちえ)が動揺しない」という意味である。

大日如来が姿を変えて現れたのが「お不動様」である。

すでに成仏しており蓮華座に座る資格があるが、自ら身を落として衆生(しゅじょう)救済をしている。

ここの不動堂は1月、5月、9月の28日に開帳される。

イチョウは、氷河期の忘れものと言われ、我が国に現存する樹木で最古の種。推定樹齢約330年。

19後光山善光寺

 真言宗豊山(ぶざん)派の寺。奈良の長谷寺が本寺で、その末寺。

信濃の善光寺とは無関係。山門近くの崖の中腹から出てきた板碑から嘉元4年(1306年)の年号から当寺は、

鎌倉時代から存在していたと推測されるが定かではない。

佐倉市井野の千手院の末寺。周囲には、秩父巡拝塔・出羽三山塚、百観音などがある。

境内に市指定文化財の六観世音菩薩立像、大師堂十善講2カ所がある。

明治7年(1874年)年に「鹿渡学校」が開校された寺である。

20出羽三山供養塔

 出羽三山とは月山・羽黒山・湯殿山である。江戸期は湯殿山が奥の院として中心的な存在。

明治元年(1868年)3月の神仏分離令により仏教色が排除され、月山を中心とする神の山に変った。

奥州参りとも称され、江戸期は、白い行衣を着て死出の旅で観音の羽黒山に参り、阿弥陀の浄土の月山に行き、

大日如来の湯殿山で生する擬死再生の旅となる。

長い道のりを歩き、険しい山に登り、苦楽を共にすることにより同行者の連帯意識は堅く一生の付き合いとなる。

参拝者は、行人(ぎょうにん)と呼ばれ、一緒にお参りした人を同行(どうぎょう)と言う。

一生に一度、成人男子がお参りすることにより、地域社会から一人前と認められる通過儀礼の一つであった。

江戸時代の一般的なコースは、浜街道又は会津街道から山形に入り宿坊に泊まり、三山をお参りして、

帰りに佐渡島又は日光或は松島を見物して帰る。

栗山の農村広場にある寛文4(1664年)の大日如来像を刻する塔が四街道市では一番古い塔である。

帰参後、一年に正月、5月、9月に8日講を行い、数年後に三山名と同行者名を刻み、供養塔を建てている。

この風習は現在も続いている。

現在、四街道市内に217基の出羽三山供養塔が確認されている。

 

◇江戸時代 出羽三山参拝の旅の経費はどのくらい掛ったか

四街道から筑波山を経由して、日本三景の松島に立寄り、出羽三山に参拝し、帰途、佐渡島に渡り、四街道に戻ると

全長約1,320kmある。江戸時代の旅は、一日40km歩くことが標準だったので、最短でも33日は必要であった。

出発日と到着日が刻まれている江戸時代の供養塔も現存している。そこには40日かかったことが刻まれている。

芭蕉は、出羽三山だけで8日かけている。途中で体調を崩すたり、風光明媚な所では連泊したこともあったであろう。三山は「修験者の道」であるから強力(ごうりき)、大きな河を渡るには通行料、有名な神社ではお賽銭などが必要であったであろう。一生に一度の旅、しかも男性だけの旅なので、遊郭や歓楽街で遊ぶ費用もかかったであろう。

これらを雑費とすると一日平均400円は必要? 洗濯や薬代はどうしたのであろうか?

ぞうり代一日で100円、素泊まり3,000円、朝食500円、昼食500円、経費節約で峠の茶店の🍡は無しで

我慢しよう、夕食はどぶろく付き1,500円以上で一日最低6,000円必要とすると、

0日間で合計約240,000円の費用が必要と推定される。

 

和良比に、祖先が旧佐倉藩士がいました。その家の古文書によると、彼は15歳で1人扶持(ぶち)から、62歳までに1俵御足米計17俵2人扶持に昇格している。50年間の昇給回数は合計9回、減俸1回あった。1人扶持というのは、1日米5合、1年を360日として、年間1石8斗の支給になる。従って、17俵2人扶持というのは、何俵を与えるという切米制と扶持米何人扶持という二本立の支給形式がありました。彼の場合は、高小知(たかしょうち)といって、比較的下級の藩士で17俵取りを石に換算すると(1俵は3斗5升)5石9斗5升になる。2人扶持の1日5合×360日×2人の3石6斗を足すと合計9石5斗5升が彼の1年間の収入であった。年収を現在に換算すると、74万円余。何と旅費24万円は年収の約32.4%。巨額な旅の費用であったことが分かる。彼が、20歳のとき2両2人扶持になった時、金1両で米1石2升2合2勺買えた。1石は150㎏、現在米の価格は10㎏4,000円として計算すると1石は約60,000円となる。江戸時代の1両は、約6万円。千両箱は6,000万円に相当する。いずれにしても、江戸時代に出羽三山参拝の旅をすることは、世界旅行に匹敵するくらいの費用がかかったということです。

21東作砦(ひがしさくとりで)

 作とは谷のこと。地元の長老が少年の頃、この城跡「ほっこみ山」(三四郎山ともいう)と呼んでいたそうです。

市域には、中世(鎌倉~室町~戦国時代)の城・館・砦跡が約18ヶ所確認されている。

これらの城館跡は千葉氏の盛衰に密接に関っていた。

戦国時代も終わりの頃、豊臣秀吉による小田原城攻めによって、北条氏と運命をともにしてきた千葉氏の没落のあと、

城はつぎつぎと落ち、文書などの記録もほとんど残されなかった。

22埋め墓と詣(まいり 又は まつり)墓

一般的に「死体を埋める墓」と「お詣(まい)りする墓」 とが別々の所にある

ことを「両墓制」(りょうぼせい)という。その死体を埋める方を「埋め墓」と

いい、石塔を建ててお詣りする墓を「詣り墓」という。「埋め墓」は、一般的に

「詣り墓」から離れた所あり(山一つ離れた所の例もある)、墓石も建てず、単

に印として花、樹を植え、土盛りをし、自然石などをその上に置くだけ。その

別異する理由は、「死体は汚らわしい」もので、「霊魂」は「清浄なもの」とす

る死後の肉体と霊魂との両者分離思想から生

 

じた。

 

23三才区霊地の大師堂(千葉寺十善講番外)

大師堂の建立は大正7(1918)年で、三才地域有志8名の寄進による。千葉寺十善講(番外)として毎年4月に、

鹿渡から三才へと巡礼の一行がたち寄り、大師堂前でのお祈りが行われる。

その一行もてなしは霊地保存会の人たちにより行われている。

千葉寺の大詣は4月1日~4月30日。2014年は弘法大師「空海」がお遍路を始めて丁度1200年の

記念すべき年でした。

 

尚、道標石造物は、瀧半酒店の三差路にあったといわれている。

24香取神社

昭和15年(1940年)、紀元2600年の記念と出兵者の武運長久を祈願して香取神社の創建を決定、昭和16年9月10日創建された。この神社が香取神宮最後の分祠と言われている。毎年10月16日に例大祭が行われ、多数の氏子が集まる。

また、広く四街道市全域からも多くのご参拝者がくる。

元旦祭・節分祭・七五三祝いなど 産土神・郷土の守護神としても親しまれている。

宮司は、福島一成氏。

 

境内に「昭和8年県道信説記念碑」がある。県道は、旭四街道線土地買収とあるので、両村にまたがっている旧下志津衛戍病院先の釣具屋から四街道市商工会館への道(昭和9年竣工)と考えられる。

 

 

 

 

《参考文献》

 

四街道市役所発行 地区探訪」、街道市発行「四街道文化財マップ」、四街道町史「通史編」、四街道町史「社寺史」四街道市教育委員会「街道の石」、四街道の歴史創刊号・1・2・3・4・5・6・7号、四街道の自然と民